城下町に息づくおもてなし空間

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ページ番号1020040  更新日 令和5年4月28日

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城下町に息づくおもてなし空間 -妙照寺-

妙照寺
妙照寺本堂

 妙照寺は日蓮宗の寺院で、慶長5年(1600)に最後の岐阜城主・織田秀信(ひでのぶ・信長公の孫)から竹中半兵衛の旧屋敷跡を寄進され、現在地に移転したと伝えられています。本堂は寛文2(1662)年に建てられたとされる全国的にも珍しい江戸時代前期の日蓮宗の寺院建築で、その後の改造や向背の付加はあるものの、内部の須弥壇周りは当初のままで、意匠・色彩など江戸時代初期の雰囲気をよく残しています。
 貞享5(1688)年に岐阜を訪れた松尾芭蕉は、この庫裡に一ヶ月間滞在しており、また尾張藩主が岐阜を訪れる際には藩主の休憩所にもなりました。
 芭蕉は、妙照寺を拠点に金華山登山や鵜飼見物を行い、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」 と有名な句を残しています。このように、江戸時代以降も「信長公のおもてなし」のスタイルは受け継がれていきました。

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城下町に息づくおもてなし空間 -川原町屋-

川原町屋
川原町屋の2階から岐阜城を望む

 慶長5年(1600)の落城以降、岐阜城には天守がありませんでしたが、明治43年(1910)に復興天守が建設されると、天守が見える位置に座敷を作って、その自慢の眺望で客をもてなすことが、かつての戦国城下町エリアで流行しました。
紙の原料を扱う問屋であった建物は、現在は「cafe&gallery川原町屋」として活用されていますが、2階の座敷からは今も岐阜城復興天守を望むことができます。

 町屋建築の年代は不明ですが、川原町地区は明治24年の濃尾大震災による延焼がなかったと伝えられ、それ以前の可能性があります。

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城下町に息づくおもてなし空間 -後楽荘-

後楽荘
後楽荘の庭園から岐阜城を望む

 慶長5年(1600)の落城以降、岐阜城には天守がありませんでしたが、明治43年(1910)に復興天守が建設されると、天守が見える位置に座敷を作って、その自慢の眺望で客をもてなすことが、かつての戦国城下町エリアで流行しました。
ろうそく・油商の隠居所として建てられた建物は、現在は日本料理店として使用されています。主屋は明治末から大正期にかけて建設されたとされており、庭園からは金華山と復興天守を望むことができます。

 主屋は明治末年から 7 年間かけて建設されたとされ、門は大正期に建設されました。庭園は茶の湯を強く意識した造作で、旧茅葺きの「寸休庵」が建っています。

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