岐阜城でおもてなし

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ページ番号1020004  更新日 令和5年3月13日

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岐阜城でおもてなし ー山麓の居館ー

山麓居館復元イメージ
山麓居館復元イメージCG

 岐阜城の山麓に築かれた館は、訪問者が最初に訪れる場所で、そこでは建物や庭の見学、踊りと歌、オヤツや食事、贈り物等の接待が行われました。元亀3年(1572)に日本布教長フランシスコ・カブラルが来訪した際、信長公は歓迎の晩餐会を開きますが、食事までの待ち時間に自ら果物を持っていくとともに、庭にいる鳥を殺させて料理に出すよう命じています。
 また天正2年(1574)に岐阜を訪れた堺の茶人・商人の津田宗及(つだそうぎゅう)に対しては、彼一人のためだけの茶会を開き、美濃特産の干柿を含んだ豪華な料理を振る舞いました。堺の代表的な人物であった宗及の扱いは破格で、ご飯のおかわりは信長公自らがよそっています
 近年の発掘調査では、複数の庭園や金箔飾り瓦が見つかっており、居館の姿がイメージできるようになってきました。

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岐阜城でおもてなし ー山上の城郭ー

岐阜城
岐阜城復興天守と石垣

 信長公は軍事施設である山上にも人を招きました。永禄12年(1569)、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは柴田勝家の案内で山上を訪れ、豪華な座敷でお茶と食事をいただきましたが、その際も信長公が膳を運び給仕を行いました。フロイスは、膳を頭上に掲げて感謝の気持ちを示したところ「汁をこぼさぬよう、まっすぐに持つように」と信長公に声をかけられたことを記しています。
 なお、信長はフロイスとの別れ際に次のように告げています。「美濃へは何度でも訪れよ」と。

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岐阜城でおもてなし ー山上からの眺めー

山上からの眺め
山上から城下町を眺める

 慶長5年(1600)の関ケ原の戦い以降、江戸時代を通じて岐阜城の天守は失われたままでしたが、明治43年(1910)に初代復興天守が建設されました。昭和18年(1943)に一度焼失するも、昭和31年(1956)に2代目復興天守が再建され、現在に至っています。濃尾平野を一望する天守からの絶景は、信長公自慢の風景で、昔も今も大きな見どころです。
 永禄12年(1569)に岐阜を訪れた京都の公家・山科言継(やましなときつぐ)は、岐阜滞在中に「山の城一覧の望(山上の城も見たい)」とお願いし、晩餐会に招かれました。食事の後に城内の見学をしていますが、山上からの眺めについて「険難の風景、言語に説くべからず(険しい風景は、言葉にすることができない)」とその感想を記しています。
 おもてなしの舞台となった長良川・金華山・城下町の景観は国重要文化的景観に選定されています。

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