まちの名所でおもてなし

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ページ番号1020029  更新日 令和5年4月17日

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まちの名所でおもてなし ー川原町のまちなみー

川原町
川原町のまちなみ

 川湊の近くに発展した川原町地区には、長良川の堤外地(川の中)に位置しており、かつては多くの紙問屋や材木問屋が軒を連ねていました。現在も独特の白木の格子が続く美しい町並みが継承されています。
 信長公は、楽市楽座の一方で川湊の商人に舟木座の結成を認めるなど柔軟なまちづくりを行い、道三が築いた長良川の水運を基軸とした城下町を国内有数の商業都市へ発展させました。宣教師ルイス・フロイスは町に一万人が住んでいたと記し、賑わいの様子を「バビロン」の混雑と表現しました。 また柴田勝家の邸宅では「食事をするまで帰してもらえなかった」そうで、城下町での手厚いおもてなしぶりが窺えます。

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まちの名所でおもてなし ー御鮨街道と鮎鮨ー

御鮨街道
御鮨街道のまちなみ

 御鮨街道(おすしかいどう)は岐阜の町から南へ延びる古くからの主要道路で、街道沿いには、旧紙問屋の「空穂屋」や旧松喜仏壇店(文化的景観の重要な構成要素)など、多くの店舗が建ち並んでいます。
 鵜飼でとれる鮎は、と共に古代から美濃の特産品でした。江戸時代になると町にあった御鮨所(おすしどころ)で調製された鮎鮨が、この道を通って江戸の将軍家に献上されたため、御鮨街道と呼ばれるようになりました。文化庁の100年フードにも認定されている鮎鮨は、現在、長良川沿いの一部の旅館・ホテル、店舗で提供されています。

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まちの名所でおもてなし ー岐阜善光寺ー

善光寺
岐阜善光寺

 戦国時代、信濃の善光寺如来は、信長公により一時期岐阜に迎えられていました。本能寺の変後は、所在を転々としたのちに信濃に戻りますが、信長公の孫の秀信公はこの地にお堂を建立し、善光寺如来のご分身を祀ったといわれています。
 当時、善光寺如来は岐阜城下町の名所として知られていたようで、永禄12年(1569)に岐阜を訪れた京都の公家・山科言継(やましなときつぐ)は、滞在中に2度ほどお参りに訪れています。

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まちの名所でおもてなし ー法華寺ー

法華寺
矢島町の法華寺

 矢島町の法華寺は日蓮宗の寺院で、信長公の岐阜入城後に清須から移転したと伝えられています。
 京都の公家・山科言継(やましなときつぐ)は、後奈良天皇13回忌の費用を集めるために岐阜の信長公のもとを訪れ、永禄12年(1569)の7月から8月にかけて1か月以上滞在しますが、善光寺如来と同じく法華寺にも2回訪れています。
 

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まちの名所でおもてなし ー御薗の榎ー

榎
御薗の榎

信長公在城時、楽市場の入り口市を守る神として植えられていたとされる榎です。明治時代初め頃に現在の場所に移され世代交代をしていますが、当時のまちのにぎわいを物語っています。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは岐阜来訪の際、多くの取引・商売をする家に泊まりますが、これが楽市場の近くだったのかもしれません。なお、会話もできないほどうるさかったらしく「バビロンの混雑」と表現しています。また江戸時代、尾張藩の御畳奉行であった朝日文左衛門は、金華山観光をする前に立ち寄っており、「道の真中に古大榎あり」と記しています。
 

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まちの名所でおもてなし ー伊奈波神社と岐阜まつりー

岐阜まつり
岐阜まつり からくり山車

 天文8(1539)年ごろ、岐阜城築城に伴い斎藤道三公が稲葉山(金華山)にあった伊奈波神社を現在地に移したと伝えられています。
 戦国時代に岐阜を訪れた有力者は城下町の名所を訪れましたが、時期が合えば伊奈波神社の祭礼も見物したことでしょう。岐阜まつりは、江戸時代中期には山車祭りとしての原形が確立したと考えられており、現在は4月第1土曜日に踊山車やカラクリ山車、神輿の練り込みが披露されるなど春の風物詩となっています。

 現在残る山車4輌と神輿3基は、市重要有形民俗文化財に、岐阜まつり行事は市重要無形民俗文化財に指定されています。

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