令和7年度 岐阜城跡天守西側発掘調査成果を発表しました!
調査の概要

令和7年度は、天守西側と一ノ門北側で調査を行っています。
調査は令和7年10月28日から開始し、令和8年2月中旬ごろに終了予定です。
今回は、大きな成果があった天守西側について発表を行いました。
天守西側の発掘調査成果
江戸時代の『稲葉城趾之図』には、天守西側の石垣がはっきりと4段で描かれています。
これまでの発掘調査や、周辺地形の表面観察では、上から1、2、4段目の石垣を確認しています。
今回は、これまで確認されていない3段目の石垣の有無を調査しました。

(1)3段目の石垣の確認
調査の結果、信長公時代とみられる天守西側3段目の石垣を確認することができました。
『稲葉城趾之図』の西側ラインに相当する箇所においては、
石垣そのものの石材1石(幅70cm×高さ40cm×奥行95cm)を確認し、
さらに、北側のラインに相当する箇所では石垣の裏込め(大きさ約10cm~20cm)を確認しました。
これらの状況から、『稲葉城趾之図』のとおり、天守西側に4段の石垣が存在することを確定でき、
絵図の正確性が改めて証明されました。

(2) 礎石の発見
さらに、3段目の石垣の上部には、『稲葉城趾之図』には表現されていない広い平坦地が
形成されており、この平坦地を調査したところ、建物の礎石を3石確認しました。
礎石はすべて川原石で、1石は平坦地のほぼ中央、残り2石は北側斜面で見つかっています。
(北側斜面の礎石のうち1石は、長さ45cm×幅22cm×厚さ15cm)
北側斜面の礎石の間隔は約1.9m、中央と北側斜面の礎石の間隔は約3.6mであり、
これはおおむね、建築で用いられる寸法(1.8m=1間)に当てはまることから、
櫓(やぐら)や塀など、しっかりした建物があったとみられます。
また、土の堆積状況からみると、石垣と礎石は同じ地面を基礎に構築されていることから、
一連の工事で設置されていることが確認できました。
天守台周辺で信長公時代の礎石が見つかったのは初めてです。

調査のまとめ
平成30年度にスタートした岐阜城山上部の発掘調査により、
戦国時代の岐阜城の姿が次々に明らかになってきています。
令和7年度の調査で、信長公は城の西側や北側から見上げた時、
石垣だけでなく、櫓や塀も含めて一体にみえる「魅せる城づくり」を意識していた
可能性が高まってきました。
今後も調査を継続し、当時の岐阜城の姿に迫っていきます。
発掘調査成果の公開
今回発表した天守西側の発掘調査現場の現地説明会を開催します。
詳細は以下のリンクをご覧ください。
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