鵜との一生続くつながりを大切に、昔からの鵜飼を続けたい
【連載第2回】鵜との一生続くつながりを大切に、昔からの鵜飼を続けたい
6人の鵜匠の中では、杉山雅彦鵜匠代表に次いで鵜匠歴の長い山下哲司鵜匠。鵜飼の歴史に関する豊かな知識もお持ちです。そんな哲司鵜匠の信念や、未来に向けた準備などについて、鵜匠補の山下雄司さんへの質問も交えながら取材しました。

昔と同じような鵜飼のためには技術が必要
山下哲司鵜匠のお宅には、江戸時代ごろから昭和、平成までの、さまざまな文献や鵜飼の道具が伝わっています。資料の一部を岐阜市歴史博物館に寄託し、研究を進めてもらっているほか、哲司鵜匠自身も興味を持って見ています。
「昔から貯めてあったけれど、息子の代になる前に、今のうちに整理していかんとだめやろうなと」。
鵜飼の最新の研究成果にも目を通すほか、日ごろから新聞などでさまざまな情報収集も欠かしません。
哲司鵜匠は昨年、岐阜のある病院の記念誌で、岐阜の医師などが大勢映る古い集合写真を目にし、それが自宅に伝わる写真とほとんど同じだと気付きます。
改めて自宅の写真を見直すと、「北里博士」という名前のメモが書かれているのを見つけました。その写真には、2024年7月発行の新千円札の肖像でも知られる、細菌学者の北里柴三郎博士と、その恩師ローベルト・コッホ博士が映っていたのです。
その後、観覧船の事務記録を調べたところ、コッホ博士の名前を発見。二人が鵜飼を観覧していたことも明らかになりました。
さらに、新一万円札の顔である渋沢栄一が鵜飼を観覧する予定だと書かれた手紙も見つかりました。
はっきりした年代は書かれていませんでしたが、明治から大正のころ、県庁から山下家にあてて「渋沢男爵が鵜飼を観られる予定、明日(みょうにち)鵜飼はあるか」と尋ねている手紙です。当時の鵜匠小頭を務めていたのは哲司鵜匠の曽祖父、光太郎さんでした。
1300年を超える年月を生き抜いてきた長良川鵜飼。その歴史は過去のものとして存在するだけではなく、現代につながり、私たちにさまざまなことを気付かせてくれる興味深いものでもあるのです。
現代人として生きつつも、先人たちと同じように日々漁に出たり、鵜の世話をしたりしながら、鵜飼の歴史に日々触れている哲司鵜匠は、こんな思いを抱いています。
「基本的には、昔と同じような鵜飼をしないと。長良の鵜飼は6艘の鵜舟がある “豪華な鵜飼“ だね。小瀬のように静かなところでやる鵜飼も雰囲気がいいけれど、ここはここで面白い鵜飼じゃないかと思って」。
“豪華”さを感じる要素の一つが「総がらみ」。6艘が同じ方向に向かって進み、鮎を追い詰めていきます。

「漁法の一つだけれど、それに加えて形が綺麗だということで、最後は鵜舟をお客さんの方に向けていきます。このやり方は昔から基本的に変わらない。これからもちゃんと引き継がれていってほしいですね」。
そのためには、鵜匠や船頭の技術も重要だと哲司鵜匠はいいます。
「6艘がみんな同じ方向に向かっていくには技術が必要。それに、自然が相手なのは昔からだけれど、特に最近は天候が怪しいことも多いです。それに対応するためにも、やはり技術を磨かなければと思います」。
鵜は健康がいちばん。コミュニケーションは毎日欠かさず
長年、長良の鵜飼を見つめ続けている哲司鵜匠。以前はお客さんの接待で観覧船に乗る人が多くいましたが、最近は「真剣に鵜飼を見よう、鵜飼自体を楽しみたいという人が増えた」と感じています。だからこそ、鵜が魚を捕らないと「せっかく見に来たのに」と思う人もいるのではないかと、哲司鵜匠は案じています。
「天候や川の水の濁り方などによって、魚の捕れ方は全然違う。どうしても、いい時と悪い時があるのです。
“発表会” だと思って見てもらうといいんじゃないかな。その時その時、一生懸命やっているのはもちろんですが、鵜飼が行われる5月から10月の ”発表会” に向けて、鵜の体調を見たりしながら築く、鵜とのつながりが1年間、もっと言えば一生続いている。その時は魚が捕れなくても、そういう気持ちを見てもらいたいと思っています」。

急な代替わりはきつい。自らの経験を生かし、徐々に準備を
子どものころの哲司鵜匠は「この子鵜匠さんの子や、と見られるのがとても嫌だった。頭からそう言われると、反発したくなるじゃん」。大学生になってからは、学業のかたわら、船頭が辞めたり休んだりしたときなど、ときどき舟に乗っていました。
その後、先代が歳をとってくるのを見て「やっぱり手伝わなあかん」と、徐々に本格的に舟に乗るように。先代が亡くなった32歳のときに鵜匠となりました。
「まだ父親は62、3歳で、自分は当分中乗りのつもりだったから、急に替わるのはちょっときつかったよ。艫乗りを務めていた叔父がある程度はアドバイスをしてくれたけれど、やはり自分でやってみないとわからない。新米であろうと “鵜匠” として見られるプレッシャーや緊張感がありました」。
その後生まれた、哲司鵜匠の息子・雄司(たけし)さんは「父も母も、(鵜飼を)やらないといかんよというようなことは一切なかった」といいます。
そんな風に育てたわけを、哲司鵜匠に尋ねてみました。「まだ若いし、わざわざ最初から言わなくてもいいんじゃないのと。鵜匠に限らず家の仕事というのは、親がやっているのを見て、徐々に覚えていくものだからね。大学生になっても、あえてほったらかしで、手伝えなんて言わなかった」。
それでも雄司さんは大学卒業後、哲司鵜匠の仕事を手伝い始めました。「父の姿を近くで見ておかないと、と。私が大学を卒業したとき、父はもう65歳くらい。体力的にも大変になってくるので、少しでも助けになればという思いもありました」と雄司さんは話します。
雄司さんは現在、漁に出るときは鵜舟の真ん中あたり、中鵜遣いの位置に乗っていますが、鵜は持たず、操船の手伝いをしながら哲司鵜匠の様子を見ています。ときどき、上流では雄司さんが鵜の手縄を持ち、観覧船と並走するところで交代することも。「急に代が替わるのはかわいそうだからね。徐々に、徐々に」と哲司鵜匠は話します。
哲司鵜匠は「全然厳しくない。聞けば普通に教えてくれます」と雄司さん。そのことを哲司鵜匠に聞くと「聞かれたら答えるしかないけれど、こちらからこうせよ、ああせよと言っていたらパニックになってしまう。見て覚えて、それを自分でやらないと。何も声はかけないで、やりたいようにやらせています」と話します。
シーズンオフの作業も二人で行っています。取材に訪れると、二人は和気あいあいと仲良く作業を進めていました。

実は2023年9月、哲司鵜匠は新型コロナウイルスに感染し、数日間漁に出られなかったことがありました。その間、雄司さんが鵜匠の替わりを務めることに。漁の間、哲司鵜匠は「じっとしとれと言われたけどできなかった」ほど気になっていましたが、雄司さんは無事に務め上げました。「お客さんの前でもある程度、ちゃんとやりこなせたのは上達したということじゃないかな」と哲司鵜匠は話します。

普段の鵜の世話を雄司さんが行う場面も増えましたが、餌やりなどは哲司鵜匠も必ず一緒に行い、変わらず毎日鵜に触れています。自分が大切だと信じることを、他の誰かに押し付けるのではなく、自ら積み重ねているようにも見えました。
「鵜飼を支えるのは、私たちではなくてお客さんだと思います。ぜひ鵜飼に興味を持って、知っていただきたいですね」と哲司鵜匠は話します。
【文・写真 宮部遥(ライター)】
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