岐阜城の歴代城主

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ページ番号1034737  更新日 令和7年10月22日

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1 二階堂行政

  • 生没年不詳

 鎌倉時代前期の鎌倉幕府の官吏で、二階堂氏の祖。『美濃明細記』等の江戸時代の記録には、行政が稲葉山(金華山)に初めて要害を築いたと記載がある。その後は、二階堂氏及び分家の伊賀氏一族が稲葉山に住し、室町時代には美濃国の守護代・斎藤氏一族や小守護代の長井氏が住した、と記されている。

2 長井氏

  • 城主不明

 長井氏は、守護代・斎藤氏の家臣であったが、度重なる内乱で力を失った斎藤氏に代わり、力を持つようになっていった。

 大永5年(1525年)6月、長井氏はクーデターを起こし、守護・土岐氏と斎藤氏一族を一時武芸谷(現:関市)へ追いやった。10月に越前・朝倉市と近江・六角氏の介入で、長井氏は尾張に一時退去するが、このとき長井氏が最後に拠点としていたのが、稲葉山城である(『朝倉家伝記』等)。これ以降も度々戦が起きるが、結果的に美濃における長井氏の権力は増大する。

 元々は京都の妙覚寺の僧侶であったとされる、斎藤道三の父・長井新左衛門尉も、長井家中で頭角を現し、このころの史科に見られるようになる。後の道三の下克上の基盤が、この時期にはあったことが分かる。

3 斎藤道三

  • 生没年:生年不詳~弘治2年(1556年)
  • 城主期間:天文8年(1539年)~天文23年(1554年)

 長井新左衛門尉の子。長井規秀と名乗り父の跡を継いだ後、長井氏の惣領となった。さらに守護代・斎藤氏の名を継いで、「斎藤利政」と名乗った。利政は、稲葉山城と井口(現:岐阜)の城下町を整備し力を蓄えていった。遂には、主君である守護・土岐氏を追放して、本格的に美濃の実権を握り、井口は美濃の中心となった。尾張の織田信秀とも戦うが、後に和睦して娘を信秀の息子・信長に嫁がせる。晩年、出家して「道三」と名乗る。

 天文23年(1554年)、家督を息子の義龍に譲って隠居したが、2年後の弘治2年(1556年)に、義龍と長良川で戦い、討たれてしまう。

 道三が油売りの行商から美濃国へ来て、国盗りに成功した物語はあまりにも有名だが、これは父・長井新左衛門尉と親子2代で成し遂げたものであることが明らかになっている。

4 斎藤義龍

  • 生没年:大永7年(1527年)~永禄4年(1561年)
  • 城主期間:天文23年(1554年)~永禄4年(1561年)

 斎藤道三の嫡男。父と対立し、家督相続後の弘治2年(1556年)に父と戦って討つ。『信長公記』によれば、道三が二人の弟を愛したため、病を演じて2人を呼び出し殺害した。義龍より顛末を伝えられた道三は稲葉山を退出し、翌年戦いに及んだという。

 家督をついだ義龍は、意思決定の機関として宿老制を敷いた。また、他国の有力な戦国大名が採用していたような、新しい知行体制や軍役体制を構築し、道三の代では見られなかったような政策を打ち出していった。しかし、永禄4年(1561年)義龍は急死した。跡は子の龍興が継いだが、斎藤氏の弱体化は決定的なものとなった。

5 斎藤龍興

  • 生没年:天文17年(1548年)~天正元年(1573年)
  • 城主期間:永禄4年(1561年)~永禄10年(1567年)

 斎藤道三の孫。永禄4年(1561年)、父・義龍の死後家督を継いだ。織田信長の美濃侵攻に対抗したが、年少のため領国内を十分に掌握できず、美濃三人衆といわれた重臣(稲葉良道(一鉄)・氏家卜全・安藤守就)らが信長に通ずるなど、部下の諸将に離反するものが出てきた。永禄10年(1567年)、稲葉山城を脱出して伊勢長島に移り、各地を転々とした。やがて越前の朝倉義景を頼ったが、天正元年(1573年)8月20日に朝倉氏が信長に滅ぼされるのに先立ち、14日に刀禰坂の戦いで敗死した。

6 織田信長

  • 生没年:天文3年(1534年)~天正10年(1582年)
  • 城主期間:永禄10年(1567年)~天正4年(1576年)

 尾張の戦国武将・織田信秀の嫡男。信長の家系は尾張の守護代・織田氏の分家であったが、信長は弟・信勝を殺して家督争いに勝利し、尾張の他の織田家を滅ぼし、遂には守護・斯波氏も追放して、尾張を統一した。また、永禄3年(1560年)には桶狭間の戦いで今川義元を撃破した。

 永禄4年(1561年)に稲葉山城主・斎藤義龍が死亡し、跡を子の龍興が継ぐと、信長は美濃への侵攻を強め、永禄10年(1567年)、遂に稲葉山城を奪取し本拠を小牧から移した。信長は、城に大規模な改修を加え「岐阜城」と改めた。また、城下町も「岐阜」と改めて整備した。

 以後、天正4年(1576年)に安土に移るまでの約10年間、岐阜を天下統一の拠点として勢力を拡大していった。

7 織田信忠

  • 生没年:弘治3年(1557年)~天正10年(1582年)
  • 城主期間:天正4年(1576年)~天正10年(1582年)

 織田信長の嫡男。天正3年(1575年)、岩村城攻めで武功を挙げる。同年に織田家の家督を譲られ、岐阜城主となる。以後は、信長の後継者として、美濃・尾張の一部について、統治を行った。軍事行動もめざましく、雑賀攻めや松永久秀の討伐、武田攻めなどで織田軍の総指揮をとった。

 天正10年(1582年)、本能寺の変で父・信長が明智光秀に攻められ自害し、信忠は二条御所で籠城し抵抗するが、戦力差は埋めがたく自害した。

8 織田信孝

  • 生没年:永禄元年(1558年)~天正11年(1583年)
  • 城主期間:天正10年(1582年)~天正11年(1583年)

 織田信長の三男。信長が伊勢の神戸家の養子とし嗣がせたため、神戸信孝ともいう。天正10年(1582年)の本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智光秀を撃破する。清州会議において、信長の二男・信雄と織田家の跡目争いをするが、秀吉によって却けられ、本能寺の変で死亡した嫡男・織田信忠の子・三法師(のちの秀信)が跡継ぎに決まる。信孝は三法師の補佐役として美濃国と岐阜城を与えられた。信孝はこの直後から柴田勝家と結んで秀吉に対して共同戦線を張り、岐阜城で挙兵した。しかし、天正11年(1583年)に勝家が越前で敗死し、対抗する力を失った信孝は岐阜城を開城した。その後、尾張知多郡内海に送られ、野間の大御堂寺において自害した。

9 池田元助

  • 生没年:永禄2年(1559年)?~天正12年(1584年)
  • 城主期間:天正11年(1583年)~天正12年(1584年)

 織田家家臣・池田恒興の長男。字は「之助」とも伝わる。父と共に織田信長に仕え、数々の武功を挙げる。本能寺の変以後は、羽柴秀吉と織田信孝・柴田勝家との対立の中で、父・恒興は秀吉と接近し、元助もそれに従った。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後、池田家は美濃国の大部分を与えられると、元助は岐阜城主となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の合戦においても秀吉方に加わり参戦するが、4月9日に徳川家康の軍と戦って父と共に討死した。

10 池田輝政

  • 生没年:永禄7年(1565年)~慶長18年(1613年)
  • 城主期間:天正13年(1585年)~天正18年(1590年)

 池田恒興の二男。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後、父・恒興は羽柴秀吉から美濃の大部分が与えられて、輝政は安八郡中川庄(現:大垣市)にあった池尻城の城主となる。翌年、父や兄・元助とともに小牧・長久手の合戦に臨むが、父と兄は討死してしまう。輝政は退却して生き延び、池田家家督として、岐阜城主となる。天正18年(1590年)、小田原征伐・陸奥平定に参加し、その年の9月に三河の吉田(現在の愛知県豊橋市)に移封となった。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では徳川家康に従い、その前哨戦ではかつて居城であった岐阜城を攻略し、城主の織田秀信を降伏させた。関ヶ原の合戦後は播磨を与えられ、初代姫路藩主となった。

11 豊臣秀勝

  • 生没年:永禄12年(1569年)~文禄元年(1592年)
  • 城主期間:天正19年(1591年)~文禄元年(1592年)

 豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀の子で、兄の秀次とともに、秀吉の養子となる。正室は、浅井長政と信長の妹・市の三女・江。秀勝は、秀吉の養子となった後、丹波亀山城主、甲府城主を経て、天正19年(1591年)3月に岐阜城主となる。同年には、実兄・豊臣秀次が関白に任じられている。

 しかし、翌年の文禄元年(1592年)6月、細川忠興とともに朝鮮半島へ出陣し、唐島(巨済島)で病死する。

12 織田秀信

  • 生没年:天正8年(1580年)~慶長10年(1605年)
  • 城主期間:文禄元年(1592年)~慶長5年(1600年)

 織田信忠の長男。幼名を三法師という。本能寺の変後、清州会議の結果によってわずか3歳ながら織田家の跡継ぎに決められ、安土城に移ることになったが、叔父の織田信孝が安土へ移すことに反対して岐阜城にとどめた。秀吉は岐阜城を攻めて秀信を引き取り、安土に移して織田信雄に後見させた。文禄元年(1592年)、岐阜城主となって十三万石を拝領した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では西軍に加担し、東軍と木曽川で戦ったが、敗れて岐阜城に籠城した。その後、福島正則・池田輝政らの攻撃を受けて岐阜城は落城し、秀信は降伏して出家した。その後、高野山へ送られ病死した。

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