岐阜市史跡 黒野城跡 発掘調査

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ページ番号1005554  更新日 令和3年8月31日

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黒野城跡は、岐阜市北西部に位置する平城です。文禄3年(1594年)に加藤貞泰が美濃国黒野4万石に封じられた際に築城、慶長15年(1610年)に貞泰が伯耆国米子に転封されるまでの16年間存続しました。

平成26年5月~6月に本丸入口部分で発掘調査を行った結果、当時の石垣が姿を現しました!石垣は2段残っていましたが、本来はさらに高く積まれていたと考えられます。また築城時に大規模な造成工事を行っていることも分かりました。貞泰公の城造りに対する意気込みが伝わってくるようです。

調査成果

 1.発掘調査の概要

  • 【名称】岐阜市史跡 黒野城跡(昭和30年12月22日指定)
  • 【所在地】黒野城跡公園(岐阜市黒野388)
  • 【調査期間】平成26年5月19日~平成26年6月13日(予定)
  • 【調査面積】約20平方メートル
  • 【調査箇所】本丸入口部分
  • 【調査目的】市史跡黒野城跡の内容確認のため

黒野城跡は黒野台地の南端に位置する。文禄3年(1594年)に加藤貞(さだ)泰(やす)が美濃国黒野4万石に封じられた際に築城された。その後、慶長15年(1610年)に、貞泰が伯耆(ほうき)国(のくに)米子(よなご)6万石に転封され、廃城となった。存続期間は16年であった。
本丸跡の調査は昨年度(第1次調査)の北西隅(すみ)櫓(やぐら)の痕跡を確認調査がはじめてである。平成26年度(第2次調査)は、本丸入口部分に約20平方メートルの調査区を設定し発掘を行った。

2.見つかった遺構

入口部分の南北方向の土塁。土塁西側裾部に石垣を構築。

石垣の概要

  • 規模
    • 検出長約5.8m。さらに南北に延びている。
    • 最大2段(60cm分)残存。石垣はさらに高く積まれていたと推定。
  • 石材
    • 砂岩(加工の痕跡が少なく自然石に近い)
    • 最大のもので幅73cm×奥行62cm×高さ40cm(推定200kg)
  • 構造
    • 石垣背面には裏込石(うらごめいし)として川原石を使用。奥行約1m。

構築方法

  • 第1段階 築城時の造成(50~60cmの盛土)
  • 第2段階 石垣・土塁を構築
  • 第3段階 石垣の基底部前面に50~60cmの盛土・整地を行い、根固めを行う。

3.見つかった遺物

約100点出土。
盛土の中からは戦国時代の土師器や瀬戸美濃産陶器等が見つかった。

4.今回の発掘調査成果の意義

  • 黒野城で初めて石垣を確認
    黒野城の入口部分に石垣が使用されていたことが明らかになった。
  • 絵図に描かれている黒野城枡形(ますがた)虎口(こぐち)の土塁西側ラインを確認
    • 江戸時代の宝永七年(1710年)の絵図では、虎口の全長が「九間」(約16~17m)との記載がある。実際の土塁は絵図よりも西側に位置することが判明した。
    • これまで、絵図や表面観察でしか分からなかった黒野城の構造について、発掘調査によりその一端を明らかにすることができた。
  • 黒野城築城時に大規模な造成工事を行っていることが判明
    約1mの盛土を行っていることが明らかになった。

写真:石垣のライン 石垣が2段分見つかりました

現地説明会資料

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