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(2018年9月3日更新)
黄金の織田信長公像
JR岐阜駅北口駅前広場の中央に位置する「信長ゆめ広場」に建つ、「黄金の織田信長公像」は、市制120周年の平成21年に市民の寄附により建立されました。
この像は、高さが3m、金箔を3層張りした銅像で、高さ8mの台座の上から、岐阜市への来訪者をお出迎えしています。
市役所本庁舎ロビー
本庁舎ロビーでは、2017年に信長公岐阜入城・命名450年記念事業として開催しました「信長公ギャラリー」内の展示物「高橋英樹さんモデルの信長公像」および「左官職人”挾土秀平”さんが信長公をイメージして制作した塗り壁」を特別展示しております。
国史跡 岐阜城跡
(南西上空から)
永禄10年(1567)、信長公は稲葉山城を占領し、城主斎藤龍興公を追放して、天下統一の拠点としました。そのため、金華山の麓では、貴重な庭園跡が発見されています。
このような歴史的価値が評価され、平成23年2月7日、山麓居館跡などを含めた金華山一帯が、国の史跡に指定されました。
岐阜城
岐阜城パノラマ夜景
信長公が天下統一の本拠地とした居城です。
現在の城は昭和31年7月、岐阜城再建期成同盟によって復興されたものです。
城は、標高329mの金華山の頂きにあり、最上階からは、濃尾平野を一望することができます。
また、岐阜城パノラマ夜景期間中は、夜間営業している金華山ロープウェーで山頂にのぼり、眼下に360度に広がるパノラマ夜景を見ることができます。
岐阜公園
岐阜公園正門と「若き織田信長公像」
信長の庭
金華山の麓に広がる公園で、信長公の時代には、居館、政庁、武家屋敷といった町の中心的な場所でした。現在、「信長公の鼓動が聞こえる歴史公園」として再整備を進めています。
正門前には「若き日の織田信長像」があり、園内には信長公が駆けぬけた戦国時代の荒々しさをイメージした「信長の庭」がります。
公園内の休憩所「華松軒」には立礼茶席があり、気軽に抹茶と和菓子をお楽しみいただけます。
織田信長公居館跡発掘調査
信長公居館を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、その記録の中で信長公の館を「宮殿」と称しています。
その謎に包まれた華麗な内部の様子を明らかにするために、居館の建物位置や構造を調べる発掘調査を岐阜公園内にて実施しました。
公園北側に設けた発掘調査案内所では、調査成果を紹介するとともに、信長公居館高精細CGの現地体験タブレットの常時貸出を実施しています。
岐阜市歴史博物館
2階の総合展示室内に設けられた展示コーナー「戦国ワンダーランド」には、戦国時代、とりわけ信長公が岐阜に入城した永禄10年(1567)から岐阜城が廃城になった慶長5年(1600)までの展示室があり、信長公時代の楽市楽座が原寸大で復元されています。
また、楽市場内の反物屋では戦国時代の衣装や鎧などを試着できる体験ができます。
ぎふ長良川鵜飼
鵜飼は鵜匠が鵜をあやつり魚を捕える漁法で、1300年以上の歴史があります。
信長公は「鵜匠」という地位を与え鵜飼を保護したと言われており、「甲陽軍鑑」という本には、武田信玄の使者を鵜飼でもてなした様子が書かれています。
開催時期:毎年5月11日~10月15日
崇福寺
信長公が岐阜に入城後、菩提所として保護しました。
本能寺の変で信長公と信忠(信長の息子)が明智光秀に討たれると、信長公の側室お鍋の方がその遺品を送り寺内に埋め位牌を安置した「織田信長父子廟」があります。
また、本堂には「血天井」があります。秀信(信長の孫)は関ヶ原の戦いで西軍に加担したため、東軍の猛撃にあい岐阜城は落城しました。この時戦死した将兵の菩提を弔うため、岐阜城の床板を、本堂の天井に張られたもので、今でも鎖かたびらの血痕が付着しているのが見られます。
円徳寺
織田信秀(信長公の父)が岐阜に攻め入った際、斎藤道三公に大敗した時の戦死者を弔うための織田塚が築かれ、現在も寺の境内に安置されています。
また、岐阜に入った信長公が、円徳寺(当時は浄泉坊)門前に立てた「楽市場・定」の制札や、信長公が寄進したといわれる梵鐘などが寺宝として残されています。
御薗の榎
信長公の時代、上加納村御薗の楽市場にあった市神としての榎。
明治の初めに現在の位置に移植されました。
瑞龍寺山
瑞龍寺
金華山の南にそびえる瑞龍寺山。
ここは、信長公が稲葉山城(岐阜城)の攻略を成し遂げる起点となったところです。
立政寺
1568年、信長公が足利義昭を迎えたお寺です。
同年、義昭を擁立して上洛を果たし、義昭は室町幕府15代将軍となりました。
法華寺
信長公の岐阜入城後に清州から移転したと伝えられるお寺です。
道三塚
斎藤道三公は、1556年、嫡子義龍軍と長良川河畔で戦って敗死し、その遺体は崇福寺の南西に埋葬されましたが、たびたび洪水に遭うため、現在の場所に移され大切に保護されています。
濃姫の遺髪塚
帰蝶とも呼ばれる濃姫は、亡くなった時期ははっきりしていませんが、本能寺の変の時に信長公と一緒に亡くなったという説もあり、その時の遺髪を埋めたと伝わっている場所です。
※それぞれのスポットにつきましては、ブランドブック「信長日和」により詳しく掲載しております。
お問合わせ先
政策調整課
電話番号/
058-214-2039
058-214-2039
FAX/058-264-1719
E-mail/
chousei@city.gifu.gifu.jp
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